書評 中北浩爾 「日本共産党 『革命』を夢見た100年」 2022.10 閑居人 現在の「北朝鮮」を社会主義国家として認識するかどうかは別として、「朝鮮労働党」 と「日本共産党」は、「友党関係」にある。その意味でも、日本共産党への関心は欠かせ ない。 1922 年 7 月 15 日、渋谷村恵比寿の民家に堺利彦、山川均ら 8 人が集まって会合を開 いた。「日本共産党」結党の瞬間とされている会合である「。日本共産党」は俗称であり、1919 年にモスクワで結成された「コミンテルン」の「コミンテルン日本支部」が正式の名称 である。モスクワの指示のもと結成され、経費もモスクワから出ていた。 今年、2022 年は、「日本共産党生誕 100 周年」にあたる。そのため、日本共産党の歴 史を回顧し、現在の課題を探る書物が刊行されることだろう。 中北浩爾 「日本共産党 「革命」を夢見た100年」 中公新書 書店の店頭で本書を手に取り、何気なく最後の方のページを開いた。そこには、今後の 日本共産党の方向性について次のような提言が記してあった。 日本共産党が路線転換するとすれば、一つの選択肢は、イタリア共産党のような社会 民主主義への移行である。(401ページ) その後に続けて、現実的に「社会民主党化」して、政権交代を可能にする場合のメリ ットが縷々述べられる。 私は、思わず、ため息をついた。 著者は、1968 年生まれ。ソビエト崩壊の時期は、大学院生くらいだろう。54,5 歳だと すれば、「マルクス、レーニン」や「コミュニズム」を自らの生き方や現実の政治行動と して捉え、議論したり悩んだりしたことはもはや限られた少数派になっていた世代なの だろう。著者は党内で異論を唱えればたちまち「分派活動」として厳しい査問にかけら れ「除名」される歴史を本書で描いているであろう。にもかかわらず、かくもあっさり と「社会民主主義への移行」を提言できる神経が理解できない。そういった主張、或い はそれ以前の「党内民主化」を訴えただけでも「分派活動」と見なされてきた歴史がある。 このことが、『共産党にとって共産党が共産党ではなくなる大問題だ』ということが著 者には分からないのだろう。 本書を通読しようと考えた動機は、この「著者の不可解さ」である。ともかく、通読 して著者の真意がどこにあるのか確かめたいと考えた。 アマゾンの批評を読むと、概ね「客観的に目配りがきいた公平な日本共産党の通史」 という好意的なコメントが多い。 確かに著者は、日本共産党の公的な立場からの説明を忠実に読者に伝え、その上で実際に起きたこと、必ずしも公的説明の通りではなかったことを叙述している。このスタ ンスは終始一貫しているため、一見、「公平な評価」に見えることだろう。 しかし、著者は、重要なポイントでは、常に日本共産党やその指導者たち、特に宮本 顕治と不破哲三、志位和夫には気を遣っているように見える。それは、研究対象との今 後の研究の接点を見据えた配慮が必要だと考えているからであろう。しかし、だからと いって見過ごすことができない文章がある。 野坂参三による山本懸蔵密告と粛清一例をあげよう。 「野坂参三による山本懸蔵密告と粛清」のことである。1937 年、スターリンの粛清の 嵐の中で野坂は、妻龍と肉体関係にあった政治的ライバル山本懸蔵を密告し、山本は 1939 年に銃殺されたとされた。p122 1991 年 12 月に「ソビエト」が崩壊し、「CIS10 カ国(後、12 カ国)」に変わった。こ の崩壊の混乱下で、アルヒーフに門外不出であったはずの機密文書が流出した。各国の マスメディアが群がり、日本からも「文藝春秋社」が参戦した。 彼らはモスクワのホテルを拠点に、ロシア人の助手を雇って資料収集に努めた。この 助手たちは、最低限英語ができ、中には日本語のできる者もいた。彼らは、キーワード をもとに膨大なアルヒーフから関連する資料を探り当ててきた。日本人記者たちはそれ らを分析し、記事にして東京に送った。後に、当時の記者の一人加藤博(現在、「北朝鮮 難民基金」理事長)が私に語ったところによれば、「(花田)編集長に泊まっているホテ ルの名前を告げたら、バカ、もっと高級ホテルに泊まれ。その方がいいタレコミがある んだ」と叱られたという。現金がものをいう世界であったことは言うまでもない。 このとき、発見されたものが「野坂参三の山本縣蔵告発状」である。1937 年当時、山 本は、プロフィンテルン日本代表としてモスクワにいた。彼は、関マツという妻がいた が、ウラジオストックで活動中に野坂の妻龍と男女の関係になり、それは野坂参三がア メリカに出張していた時代に、モスクワで続いていた。 野坂のコミンテルン宛て告発状が公開されると、日本共産党も無視できず、モスクワ に調査団を送り、党としての正式の調査報告を公表した。当時、100 歳になっていた名 誉議長野坂は、山本告発も戦後ソビエトに内通していたことも事実であることを認めた 上で退席した。党は、スパイ容疑で野坂を除名し、野坂は翌年死亡した。これについて は、小林峻三、加藤昭「闇の男 野坂参三の百年」1993 に詳しい。 この事件について、著者は次のように書いている。 「・・・山本の粛清については、ソ連の崩壊後に公表された資料に基づいて、野坂参 三の密告が原因だという説が登場したが、現在では否定されている。歴史学者の和田春 樹によると、野坂は山本を救おうとさえし、彼の有罪の根拠とされたのは別な人物の調 書であったという。」 脚注に、「和田春樹『歴史としての野坂参三』平凡社 1996」とある。私は、この本を 読んでいない。しかし、寡聞にして日本共産党が和田春樹説に、党の非を認め、野坂に 対する告発を謝罪し、その名誉を回復させたとは知らない。 従って、普通、考えられることは、「著者は和田春樹説を真実と考えた」ということで あろう。「現在では否定されている」と書くなら、その根拠を書かなければならない。 常識的に言えば、「和田春樹は否定的な推測を述べたが、現在でも日本共産党は野坂を ソビエトの内通者としている。和田春樹説は、日本共産党に否定されている」とすると ころである。 なお、山本懸蔵は、1939 年 3 月 10 日に銃殺されたと報道されてきた。しかし、現在 では 1942 年まで生存していたことを日本共産党は公式に認めている。 オットー・クーシネンの妻、アイノ・クーシネンは、「回想録」の中で瀕死の日本人に 会ったことを書いている。アイノは、日本での諜報活動を終えて帰国後、政治犯として 逮捕され、収容所を転々とした。北極圏に近いヴォルクタ・ヴァムで、ヤマモトという 瀕死の日本人を見かける。翌日死んだ男が、ヤマモトケンゾウというプロフィンテルン 日本代表であったと書いている。 袴田里見もまた「私の戦後史」で、「ヤマモトは 1942 年シベリアで病死した」と記す。 袴田は、ヤマモトの妻、関マツをモスクワに呼び寄せ、生活の世話をしたことも書いて いる。 宮本顕治の「リンチ殺人事件」もう一例を挙げよう。 立花隆の「日本共産党の研究」でも詳しく論じられた宮本顕治の「リンチ殺人事件」 である。 著者は以下の通り記す。 「ここで『スパイ査問事件』が起きる。中央委員候補の袴田里見などが大泉と小畑を スパイと疑い、1933 年 12 月 23 日から当時 24 歳の宮本を責任者とする査問が行われ、 その場で小畑が死亡した。蘇生術を施した宮本らに殺意がなかったことは明らかだが、 査問の際の暴力的行為による外傷で死亡したのか(傷害致死)、小畑の特異体質によるシ ョック死なのか、さらに小畑がスパイであったか否かなどについて論争がある。」p116 「蘇生術を施した」ら「(殺したときに)殺意がないのは明らかだ」と軽く書くが、論 理的に繋がるものなのか。検事や裁判官なら眼を向くだろう。これから、全ての殺人者 に刑を軽くしたいなら事後「蘇生術を施す」ことを薦めることになるだろう。 というよりも、裁判で「外傷性ショック死」と事実認定されたことをまず書くべきだ ろう。リンチ殺人事件の事実関係については、立花隆の本に詳しく、浅ましいほどの暴 行の事実は隠しようもない。著者の書きようはいかにも宮本顕治や日本共産党に対する 忖度に満ちている。 そして、これは、はっきり言わなくてはならないが、著者は、立花隆の論考をまとも に読んでいない。「日本共産党の研究」を読んでいればこれほど軽薄なことは絶対に書け ない。これは、野坂参三についても言えることである。 そもそも著者は、日本共産党と「科学的社会主義」をどのように認識しているのか 読み進むにつれて、私は、著者の立ち位置に対する疑問と苛立ちを感じるようになっ た。 著者は「序章」において「日本共産党は現在、科学的社会主義を理論的な基礎に置く。 それは、マルクス・レーニン主義、すなわち共産主義の別称である。」と書く。 それでは、「科学的社会主義」とは何か。「社会主義」は理解できるが、「科学的」と いう形容詞は、その無謬性を押しつけるために主張するものと、一般には考えられてき た。というのはこれまで「歴史は科学である(だから「科学」を標榜するマルクス主義 は真理である)」という主張に代表される独善的言説が強く見られたからである。 簡単に言えば、「反論を全て『非科学的』と封殺するため」の「科学的」という修辞な のである。 「マルクス・レーニン主義」というが、マルクスの思想は、特に初期に見られるよう にヘーゲル、フォエルバッハを踏まえた「疎外論」を軸とする哲学であり、後、イギリ スでの「剰余価値論」の経済学、そしてカウツキーによって継承された「史的唯物論」 である。それらは、マルクスの経験とともに変成していった一つの「仮説」であり、同 時に人々の多くを魅了してきた「学説」の一つである。 「レーニン主義」とは、「政治的認識と革命に至るための方法論」である。特に、現実 に、ロシアでの革命で過程で模索され、「いま、何をなすべきか」という著作に端的に表 れた戦略と戦術である。当然ながら、「ゲバルト(暴力・戦闘)」「プロパガンダ」「詐術」 を含む種々の工作や、時として外国勢力の呼び込みも、敗戦時の混乱に乗じた戦術的な 行動(敗戦革命の企て)も「革命」に至るための必然として肯定される。「革命」という 崇高な目的のためには、「手段」は全て肯定されるのである。 著者は、「自民以外の連立政権を考える場合共産党は無視できない」としているが、一 体、著者自身はそのような連立政権を望んでいるのか。そう問えば、恐らく、「個人的に は一定の政治的に立場に立たず、立憲民主などの連立政権を望む国民が存在する以上、 政治学者としてあくまで中立公平に俯瞰したい」という答えが返ってくるだろう。 それならば、一つ、確認したいのである。 一体、「日本共産党とは、個人の自由な批判や意見表明を許す政党なのか。この政党が 連立政権の一端を占めたとき、この党は国民に自由と民主主義を許す政党なのか。」 マルクスレーニン主義に立つ日本共産党に対する最大の疑問は、党内民主主義が実質 的に存在しない政党が、理論的核心として主張する「プロレタリアート独裁」を現実化 した場合、旧ソビエト型の国家形態にしかならないという危惧である。 著者は、どう評価しているのか。この点だけでいい。答えてもらいたい。「自由」と「民 主主」義について綱領にその言葉が記されているから存在する」と答えるなら、これま での「査問」と「除名・除籍」の歴史をどう考えているのかということである。 恐らく、意図的にそのような問いは、著者は考えないようにしているのであろう。そ して、現代社会における「共産党の位置づけ」と「社会現象としての投票行動」のみ考 察の対象としているのであろう。 それを端的に示すのは、次の二つの論点であろう。 1977年袴田里見失脚、「民主集中制」の擁護 まず、「日本共産党研究」で、遠慮なく共産党の歴史を分析した立花論文の評価である。 とりわけ、「宮本顕治のスパイリンチ殺人事件」は従来なるべく触れないようにしてきた ものであるだけに、検事調書、死体検分書、裁判記録まで明らかにした社会的反響は大 きかった。 厳しい「査問」にあったのは大泉兼蔵と小畑達夫である。大泉は、野呂栄太郎逮捕の 手引きをしたスパイであった。彼のハウスキーパーの女性は革命に一身を捧げていたつ もりだったので、大泉の素顔が判明すると自殺した。ただ、小畑については、判然とし ない。恐らく、スパイではなかったことだろう。 1976 年 1 月 27 日、衆議院本会議の席上、民社党春日一幸委員長は立花論文をもとに 宮本顕治に「事件」について質問を行った。このため、多くの国民がこの凄惨な事件を 知ることになった。 事件の起きた昭和 8 年、袴田里見の調書には、宮本に不利な供述も含まれていたため、 委員長宮本と副委員長袴田の間に深刻な亀裂が生じ、それは翌年の袴田失脚に繋がって いく。 この状況下で、日本共産党の「民主集中制」と「党内民主主義」の問題が再燃する。 名古屋大学の田口富久治は「先進国革命と前衛党組織論」で党内民主主義を保証しない 限り、先進国では国民の納得を得られないとして民主集中制を批判した。 これに対して、不破哲三は「民主集中制」を擁護した。著者は、次のように書く。 党指導部は民主集中制の組織原則を確認することで党内統制を強め、1978 年に田口富 久治の著書「先進国革命と前衛党組織論」刊行されると、不破書記局長が「反共派の論 難に事実上同調するもの」と批判を加えた。支配階級を打倒して革命を実現するために は党の団結と統一が不可欠であり、科学的社会主義の世界観の真理性ゆえに党内に多元 主義は必要ないというのが、不破が民主集中制を擁護した主な理由だった。p284 ここに続けて、「議論が深まらず、田口は異端視され、多元主義を党内に適用する理論 的刷新はなされなかった」と描写される。 この文章を書きながら、著者は、「疑念」を感じなかったのだろうか。 「科学的社会主義の世界観の真理性ゆえ」という表現が、既に「カルト(独善的真理 に対する絶対的帰依)」であるとは考えなかったのだろうか。「真理性」という一切の批 判を禁ずる言葉を引用しながら、著者は仮に「共産党政権」が実現したときに言論の自 由が保障されると考えたのだろうか。 全て「傍観主義的(著者から見れば中立的立場)」である著者は、このように描いて、 何ら、疑問も痛痒も感ずることはないように見える。 しかし、著者は本書の最後に「日本共産党の社会民主主義への転換」を提案している。 ということは本当は不破哲三の主張に批判的なのだろう。「民主集中制」は、共産主義 を民主主義の一形態として認めるかどうかの問題の核心であることを考えれば、著者は 「共産党政権の現実」を軽く考えているとしか見えない。 「敵の出方論」の政府解釈は一面的で不適切だ そのような著者の立場をより明瞭にするのが、「敵の出方論」に対するコメントである。 終章「日本共産党と日本政治の今後」p355 で、著者は日本共産党の 100 年をふりかえ る。戦前の「コミンテルン日本支部」から戦後の「自主独立路線」まで、著者は特に「暴 力革命」から「平和革命」への道程と捉える。 著者は、2020 年の安倍政権の対応、その後の菅政権にスポットを当てているため、短 絡的な読者は安倍・菅政権が「敵の出方論」で日本共産党への警戒を煽り立てているか のように読むかも知れない。 志 位 委 員 長 は 2 0 2 1 年 9 月 8 日 の 中 央 委 員 会 総 会 で 、 2 0 0 4 年 綱 領 の 制 定 後 、「 敵 の 出 方 」 という表現の使用を控えていると述べ、今後は一切使わないことを決めたが、同月 14 日、 菅義偉内閣の加藤勝信官房長官は「政府の認識はなんら変更するものではない」と語っ た。 しかし、1950 年代の武装闘争方針は中ソ両国共産党の押しつけによるものであり、そ の後自主独立路線に転換したこと、少なくとも 1970 年以降の「敵の出方」論が想定して いたのは反革命クーデターの発生に過ぎないこと、2004 年綱領で平和革命路線を明確化 したことなどを考えると、今なお暴力革命の方針を堅持していると主張するのは無理が ある。p360 このように著者は、現在の志位委員長の立場に好意的に描く。しかし、志位委員長は 「敵の出方」という表現の使用を控えている、今後は一切使わないと決めた、と語るが、 日本共産党が「敵の出方論」を完全に放擲したとは言っていないのである。 「破壊活動防止法」は、昭和 27 年、日本共産党が武装闘争路線時代にできた法律であ る。始めから、日本共産党は、同法 4 条の 1「暴力主義的破壊活動」の「監視対象」で あり、公安調査庁や警備・公安警察が動向を調査していた。 1950 年 1 月、「朝鮮戦争」勃発に備えた「コミンフォルム」や「人民日報」が徳田・野坂の平和革命路線を批判すると、徳田らは武力闘争路線に方針を変えた。6 月に朝鮮戦 争が起こると、日本共産党の使命は、アメリカ軍の後方攪乱、補給網の寸断、九州独立 戦争などであった。徳田らは中国に亡命し、「北京機関」を作ってここから日本内部に指 示をだした。「人民艦隊」が組織され、山村工作隊、中核自衛隊や火炎ビン闘争など日本 の現実を無視した戦闘に多くの若者を引きずり込んだ。 この方針は、昭和 30 年「六全協」で否定され、再び、平和革命路線にもどる。こうい ったことは、単に「中ロ両国共産党の押し付け」ですむことなのか。 それですむなら、世の中の大抵のことは免罪されるだろう。 繰り返すが、この「監視対象」指定は、安倍政権で始まったものではない。昭和 27 年、「破防法」成立以来のものである。そして、民主党政権時代、鳩山政権も全く同様に答 弁してきた。国会議事録にある通りである。 志位委員長の発言を正確に読めば、日本共産党は、「敵の出方論」を堅持している。 しかし、このことを政権が「破防法の監視対象」の根拠の一つにしている以上、(戦術 的必要性から)この表現の使用を控え、今後は一切使わない。 このようにしか読めないのである。 著者は、「敵の出方論」のような「誤解されやすい、物騒な物言いはやめてほしい」と 考えているのであろう。 それならば、「科学的社会主義」・「マルクスレーニン主義」を捨て去るしかない。 そのとき、「日本共産党」は、もはや共産主義政党ではない。共産党を名告る必要はな いのである。 本書を読んでの結論を書こう。 著者は、「カマトト」である。日本共産党の決して美しくはない歴史を俯瞰しながら、 その問題点に突き刺すような厳しい視線を浴びせることなく、まるで何事もなかったか のように知らんぷりをしたり、リーダーを擁護する言葉を散りばめたりする。何でもな いところでは日本共産党に批判的と見えるようなことを書くが、肝心なところでは笑顔 を浮かべて「宮本さん、不破さん、志位さん」とすりよってくる。そして、最後に無邪 気な顔で「社会民主主義への転換」を提案して見せる。 日本共産党から見れば、著者は、「善意の衣をまとった刺客」である。「革命」を目指 してやまない共産党は様々な論理を駆使して、有権者の支持を得ようと必死に努力して いる。「ソフト路線」を掲げ、鋭い「政権批判」で支持を集め、いつの日か「連立政権」 の一翼を担い、それを基盤に勢力拡大し、最終的に「民主集中制」を実現しようとして いる。著者は善意溢れる笑顔で近づき、結局、日本共産党の「革命」に向かう果てしの ない努力を無力化しようとしている。 「破防法による監視対象」という政府の方が、遙かにシンプルに「マルクス・レーニ ン主義(共産主義)」の本質に対する理解者なのである。 #
by sukuukaifukushima
| 2022-10-16 20:41
安倍晋三が払拭しようとした「占領下日本」 閑居人 2022.9 安倍晋三元総理が暗殺された。世界の国際政治の現場における巨大な損失である。 明治維新以降、海外で英語でスピーチをしてその内容の深さや真摯さで大きな感動と 信頼を勝ち得た日本の政治家は、伊藤博文と安倍晋三しかいない。中でも、安倍晋三は 日本の政治史上空前絶後の国際的評価を得た首相というべきだろう。 しかし、国内では今でも、「アベ政治を許さない」などと声高に語る人がいる。「モリ カケ・サクラを解明しろ」と叫ぶ人もいる。「モリカケ・サクラ」などとっくに片づいた 事件である。 「モリ」は、関西の学校経営者が起こした詐欺事件に、安倍首相夫人が巻き込まれた 事件である。しかも謀略まがいの 100 万円の「送金書」などが出てきたが、マスコミは 当然やるべき筆跡鑑定もしなかった。彼らは騒ぐのが面白かっただけである。 「カケ」は、当時の加戸守行愛媛県知事の説明につきる。四国では獣医師が不足し、 獣医師養成大学を誘致する必要があった。この件ではむしろ獣医師会から要請を受けて 文科省に新大学を認めないよう圧力をかけた石破茂のほうが余程問題である。 「サクラ」は、用心深い安倍事務所が犯した唯一の失敗である。しかし、一人当たり 二千円程度の補助で刑事責任を問うことは過去の類似した事件の判例からできない。事 務所は道義的責任は免れず責任者は退任した。しかし、そのような細かいことまで一国 の首相が関わっていたと考えること自体正常では無い。「監督責任」はあるだろうが、「陳 謝」で済むことである。国会で百何十回偽りの答弁をしたといっても繰り返し同じ質問 をする手合いが愚かなのである。 「戦後レジームの精算」を、安倍晋三は第一次政権時から掲げて、果敢に戦いを挑ん だ。「教育基本法の改正」「自衛隊の防衛庁への格上げ」「国民投票法の制定」等々。性 急すぎるという批判はあったが、日本が国際社会を生きていく上で必要なことをやらな ければならないという切実さと覚悟は伝わってきた。 実は、安倍晋三ほど、日米戦争の結果、アメリカによって行われた「日本改造計画」 の本質を見抜き、戦後の一時期を過ぎて逆に日本の「手かせ足かせ」になっている「ア メリカによる洗脳」を改めようとした政治家はいない。 アメリカの日本制圧計画の第一は、アメリカ製の日本国憲法である。マッカーサーは この憲法に征服意義を見いだし、吉田茂は迎合することで政権を維持した。以後、現在 に至るまで、多くの人々が、無意識的に占領下の「閉ざされた知的空間」に安住し、占 領下の言葉で生きていることが自覚できないでいる。 この病理は、特に「国際政治」と「安全保障」の分野で顕れている。国際政治は基本 的に「人間・性悪説、過ちを犯すこともある存在」という哲学を前提として組み立てら れる。国家による国民の生命財産の保護。このことが最高の福祉である。しかし、アメ リカ製日本国憲法は、180 度異なる立場で「憲法前文」と「九条」を構成している。こ のことを「平和主義」とする偽善と誤解が長い間我が国の言論を支配してきた。 「収容所国家・日本」1945~1952 昭和 20 年 8 月 15 日から 27 年 4 月 28 日まで、多くの日本人は気づかなかったかも知 れないが、こと「言論」に限れば、実態は国全体があたかも「捕虜収容所」だった。 アメリカは、緒戦で捕らえた日本人捕虜の取り扱いから、日本人の扱いを学び、その 知恵を「占領期・全日本国捕虜収容所 7 千 7 百万人」の管理に活用した。これは極端な 言説のように思われるかも知れない。日本のどこに鉄条網と巨大なバラック、閉じ込め られた人々がいたというのか。確かにそうだが、シンボリックに言えば、自由な知的空 間が封殺されていた国家は、そのこと自体「捕虜的状態」だったのである。 例えばそれは、「マック憲法」の成り立ちを考えれば分かる。マッカーサーは、幣原喜 重郎との二回目の会談で、「憲法第九条」を「日本側からの提案」にすることを強く要請 した。その際、「天皇の取り扱い」を暗黙の取引の材料としたことだろう。幣原は、屈辱 に耐えて了承しただろうが、彼がなしえる最大の抵抗として「会見記録」を残さなかっ た。外交官として、常に完璧な「記録」を残した幣原の思いを見るべきである。 アメリカ統合参謀本部は、昭和天皇の扱いについて、1942 年(昭和 17 年)の段階で 既に「戦犯」とせず、丁重に扱って占領政策に役立てることを決定していた。その背景 には、捕虜に対する尋問から、天皇に対する国民の畏敬の念の深さを熟知していたこと があった。この認識は、グルーのような知日派外交官の認識が正しいことを証していた。 しかし、その一方で、1944 年に「日本占領に乗り込むスタッフ」を公募したとき、応 じた若者たちは、リベラル崩れの、失敗した「ニューディール計画」の計画経済に夢を 馳せた若者たちが多かった。F.D.ルーズベルトの、国家が積極的に関与する社会主義的 な計画経済は手ひどい失敗に終わり、一千万人の失業者を抱えていた。一方、ドイツか ら亡命したフランクフルト学派の知識人たち(ホルクハイマー、マルクーゼ)は、アメ リカの若者たちにマルクス主義への憧れを鼓舞していた。後に民政局で日本改造を試み たケーディス、ビッソン、コーエン、シロタ・ゴードンなどはそういった人々である。20 代後半から 40 代半ばの若者たちのは、ビッソンのような明らかな左翼もいたが、大半は リベラルの原理に共鳴し、日本を支配する「封建的残滓」(ノーマン)を取り除こうとす る考え方をしていた。彼らは、十字軍的占領意識をもって日本というアジアの不思議な 国家を、彼らにとって分かりやすい国家に改造しようとした。 彼らは、どのような「日本理解」をしていたのか 鍵になるのは「IPR(太平洋問題調査会)」と「オーウェン・ラティモア」そして「ハ ーバート・ノーマン」である。IPR は、政治化し、機関誌「アメレジア」は日本批判の プロパガンダ雑誌となった。その編集長がラティモアだった。 ラティモアの日本観は、「天皇を頂点として、財閥・大地主と軍部が支配する悪魔的帝 国であり、壊滅し、貧しく弱い国家に改造し、アジア国家(中国、朝鮮)に支配させな ければならない」というものだつた。彼は、ポーリー賠償団の中心として賠償案をまと めた。その内容は、最小限の産業施設を除いて、日本国内の工業施設を解体してアジア 諸国に配分する。日本人の生活水準はアジア諸国の平均を超えてはならず、天皇は中国に隔離して国際監視団の下に置く。(中国人が天皇一家を虐殺するならそれも良い)そう いうものだった。 こうした粗雑な日本観を歴史学的に支えたのが、ハーバート・ノーマンの「近代国家 日本の成立」である。ノーマンは、ケンブリッジに留学した際、イギリス共産党に入党 した。カナダ政府外交部語学官として来日したときは、羽仁五郎に明治維新を学んだ。 岩波の「講座派」を愛読し、1932 年のコミンテルンテーゼが描く日本観に共鳴した。 日本は長く封建の軛に支配された国家であり、江戸時代、民衆は奴隷状態に置かれて いた。明治維新は、西南諸藩の下級武士によって起こされたが、それは不十分な革命で あり、天皇、財閥(都市大資本)、大地主、軍部といった支配構造はそのまま残され、一 般国民は搾取と隷従を強いられた。明治 6 年の「徴兵令」は、兵士たちの有効な活用と 財閥・軍部の野心のために日清・日露の侵略戦争を引き起こした。そしてその勝利は、 その後の帝国主義的対外膨張政策の原点となった。 日本の民主化は、江戸時代の百姓一揆、明治期の民権運動、そして日本共産党や労働 運動、農民運動の中に希望の灯火が宿っている。天皇制の問題を克服し、財閥・大地主、 軍部の支配する国家構造を解体し、市民のための社会を作らなければならない。 ラティモアの粗雑な議論は、膨大な脚注で一見精緻に見えるノーマンの博士論文によ って裏打ちされた。ノーマンは、日本の研究論文も引用していたが、骨格は初めから野 呂栄太郎の岩波「講座派」の所論である。そして「講座派」は、「1932 年・コミンテル ンテーゼ」の枠からはみ出さないように理論構成をしていた。日本人研究者の中にノー マンフアンは数多くいたが、それは岩波の「講座派」を共通分母としていた。 彼らは、ノーマンの日本史に鏡に映った自分の顔を見たのである。 ノーマンは、15 歳まで日本にいたが、平かなとカタカナしか書けなかった。もちろん、 耳で聞く日本語は、メリットを持っていたことだろう。しかし、彼の日本史研究は英語 文献をもとにしたものであり、引用された日本語文献は実際には読んでなかったと言わ れる。サンソムは一時期ノーマンに期待したが、後には言及しなくなった。 若者は、年老いて世の中を知り尽くした穏健な議論より、ぎらぎらした過激な批判と 大胆な改革を好む。思い切って大鉈を振るいたいのである。 昭和 20 年から 21、22 年にかけて、GS 民政局のホイットニー、ケーディスによって公 職追放、憲法改正、財閥解体、農地改革などが進められた。戦前の政党は全て解散を命 じられたが、情報分析課長ノーマンの裁量によって日本共産党だけが存続を許された。 また、ノーマンは、戦犯容疑者について「覚書」を作成し、マッカーサーが民主化の軸 として期待していた近衛文麿を戦犯容疑に追い込んだ。 「ノーマン全集」に収められた「覚書」は、これ以上ないほど感情的な怒りを近衛に 向けている。中国戦線拡大の責任を近衛に求め、マッカーサーが近衛に託した自由主義 的憲法の制定に最も不都合な人物として激しく糾弾した。近衛は、東京湾に浮かぶアン コン艦での厳しい尋問の後、逮捕される前日、昭和 20 年 12 月自殺した。 アメリカによる検閲と洗脳 占領直後、GHQ は、G-2(参謀第二部)の下に民事を扱う CIS(民間諜報部)と軍事刑事を扱う CIC(対敵諜報部)を置いた。実は、アメリカは占領下の日本を明確な「敵 国」として、神経を尖らせながら国民の動向を見張っていた。 1945 年 9 月に東京中央郵便局内に置かれた CIS の下部機関 CCD(民間検閲局 Civil Censorship Detachiment)は、最盛期 8 千人の日本人検閲官を使って新聞、出版、映画演 劇、放送などのマスメディアを検閲した。そして国民の郵便・電信の 3%を抽出して開 封し検閲した。電話に対しても盗聴が行われていた。国際電話の 20%が盗聴された。 この検閲は、1949 年 10 月まで行われたが、1979 年、江藤淳が「閉ざされた空間」で 告発するまで一般に認知されることはなかった。 この「見えざる情報管理」の下で、GHQ がメディアを使って大々的に行ったプロパガ ンダが「真相箱」や「真相はかうだ」である。 この GHQ の「ウォーギルトインフォメーション(戦争犯罪の意識化)」と呼ばれる日 本国民洗脳作戦にはひな型があった。それは、アメリカ軍が捕獲した日本人捕虜を協力 させるために行った手法である。 虐待・拷問死を覚悟していた兵士が、殺されないことが分かってほっとする。その兵 士に、静かな環境を与えると、自然に感謝の念が生まれ、しゃべってはいけないと思う こと以外、話すようになる。決して「天皇」や「日本」のことは批判したり悪口を言っ たりせず、心を開かせて自発的に話すことを待つ。 このことを基本に、「延安」で野坂参三が捕虜の洗脳に使っていた手法を付け加えた。 それは、「怒り」と「贖罪」である。いかに騙されていたかを教え、上官や日本の支配体 制に対する不信と怒りの念を起こさせる。そして同時に、激しい贖罪と自責の念のとり こにさせる。「自己批判」と「総括」を繰り返し行う。 こうして、1945 年から 1952 年の講和までの間、日本国は「眼に見えない巨大な捕虜 収容所」になった。新聞も放送も全て厳格な GHQ の検閲下にあった。しかし、それは 「敵国扱い」同様秘密であり、国民には厳重に隠された。 やがてそれに「対日委員会(米・英・ソ・中)」の検閲が追加された。これらの国家に 関する報道には制約が加えられた。東ヨーロッパ諸国のソビエトの衛星国化や 1948 年の チェコの革命は、ソビエトの軍事力による恫喝と要人暗殺は伏せられた。スターリンや 毛沢東についての賛美は許可されたが、ラーゲリ国家ソビエトの実態は率直に報道する ことはできなかった。 生きている亡霊「アベガー」 現在、通称「アベガー」と呼ばれる人々がいる。旧左翼崩れの弁護士、大学教員など である。彼らは、日本という国家の歴史を否定し、安倍晋三が進めた安全保障法制を嘲 笑し、「日米は中国侵略を目論んでいる」とまで発信する。 もっと穏やかに「憲法九条を守り、平和主義を」と叫ぶ人々もいる。彼らは、大抵、 子どもの頃は優等生で、戦後の占領下に GHQ と共産党の合作である「日教組的歴史観」 を盲目的に暗記した。また、大学時代、政府や保守派をひたすら批判することがあたか も自身を正義の殿堂の高御座に招くように考え、そこから一歩も抜け出せない。戦後、 続々と顕れる歴史的新事実の発掘や、公表された公文書などから「過去・歴史」を再解釈し、公平でバランスのとれた歴史認識を構築しようとする意欲などない。 共産党が画策した「九条の会」のデモ行進など見ると、60 代、70 代の老人ばかりで、この世代が最も強く「戦後民主主義」の影響を受けたのだということが分かる。 特に「理想の社会主義国家」という虚像を担いでいた人々は、今や、首のないメドゥ ーサのように至る所でのたうち回り、興味本位で煽るマスメディアとともに社会を混乱させるだけの存在になっている。 占領政策の「正常化(逆コース)」とニューディラーたち さて、民政局のケーディスらの活動は、次第にアメリカ国務省の危惧するところとな った。ジョージ・ケナンは、スターリン体制と東欧諸国の現状に危機感を抱き、中国大 陸の国共内戦では見事に毛沢東の戦略にはまったことに気づいた。F,D,ルーズベルトは、 戦後世界は「米英ソ中の四人の警察官で守る」と豪語したが、大英帝国は戦費でアメリ カの借金漬けになり、ポンドは基軸通貨の地位をドルに奪われ、見る影もない。ソビエ トは「ヤルタ協定」を盾に、東欧、満洲、朝鮮、樺太、千島を伺い、公然とアメリカの 世界戦略に挑戦している。中国と言えば、アメリカが「国共合作」に拘ったあげく国民 党への支援を一時停止したために蒋介石が敗れようとしている。北朝鮮は独立の動きと 対南戦争の準備が見えている。 こういった世界情勢の中で、日本の弱体化は途方もなく間違っている。アジア地域に おける安定的なパワーは日本以外に担いようがない。 ケナンの考えは国務省の政策となり、マッカーサーやアイケルバーガー、ウィロビー のような実務的軍人の現状認識と一致した。ここからいわゆる「逆コース」が始まる。 「逆コース」は、国際政治における日本の異様な状況がようやく「正常化」されたことでもあった。 若いニュー・ディーラーたちは失意のうちに次々に帰国した。 ビッソンは、コミュニストであった。1947 年 2 月 1 日に予定された「ゼネスト」に賛意を示した。労働問題が専門のコーエンが「さすがにそれはまずい」と言うと、「社会主 義者だけが日本を変えられる」と反論した。「ゼネスト」が中止されて、ビッソンは帰国 を選んだ。 ビッソンの「日本占領回想記」(邦訳 1983 年三省堂)を読むと、彼がノーマンや財閥 解体に意欲を燃やしていたエレノア・ハドリー、労働組合専門家のコーエンたちと酒を 酌み交わし、日本改造の夢を語り合っていたことが分かる。占領軍のスタッフとして特 権的な立場で、青春を謳歌しているような気分が溢れていて、これはこれで面白い。た だ、彼らの特権や贅沢を保証したのは、敗戦国日本政府と日本国民の経済的負担だった のである。 憲法改正を主導した民政局次長ケーディスは、そのリベラルな思想と鳥尾子爵夫人と のスキャンダルで、G-2 のウィロビーの顰蹙を買っていた。彼は、1947 年の終わりには 本国に召還され、二度と民政局に戻ることはなかった。ワシントンで弁護士事務所に勤 務したが、その後は精彩を失った。 セオドア・コーエンは、日本の労働問題をまじめに研究した若者で、魅力的な回想録を残した。ユダヤ人の彼は身長が 150 cmそこそこの小柄な体躯であったが、思い上がり がなく、戦後日本と仕事に対して常に誠実であった印象がある。 シロタ・ベアテ・ゴードンは、「憲法 24 条の草案を書いた」という触れ込みで 1995 年 には日本でも有名になった女性である。父親は、キーウ生まれのユダヤ人で国際的に知 られたピアニストだつた。東京音楽学校の教授だつたため、ベアテは 5 歳から 15 歳まで 日本で過ごした。そして、戦後の焼け跡日本に帰ってきた。ベアテの自慢については、 疑念も多い。彼女は、雑誌記者の経験を生かし。焼け残った東京の図書館からアメリカ 憲法、ソビエト憲法、ワイマール憲法などの資料をかき集めてきてケーディスらを喜ば せた。しかし、「戦勝国が敗戦国の憲法を作る」ことへの羞恥心は全くなく、とても素晴 らしいことを成し遂げたと無邪気に思っているようである。 ハーバート・ノーマンであるが、1946 年 8 月カナダ外交部に復帰し、「対日委員会カ ナダ代表」となって GHQ から離れた。閑職であったため、1951 年帰国するまで、安藤 昌益の研究に浸った。 この時期のノーマンは、比較的落ち着いて日本の研究ができたようである。1949 年に 雑誌「展望」で丸山真男らと対談したときは、既に過激な歴史観は鳴りを潜め、歴史家 らしい穏やかな物言いに変わっている。丸山がノーマンの著述を褒めると「日本人は甘 すぎます。外国人のものはもっと厳しく批判していいのでは」と笑っている。 しかし、イギリス共産党員としてケンブリッジ時代深く関わったことは英国諜報機関 により、証拠が押さえられていた。マッカーシー旋風が始まった時期、カナダ外交部に ケンブリッジ時代のことは話せなかった。このことがノーマンの命取りになった。 カナダは、もともとアメリカとの国境線に沿って人々が暮らしている国家である。人 口も人材も少なく、カナダ外交部は、過去を正直に話せばあとは問わない方針だった。 しかし、ノーマンは口をつぐんでしまっていた。 「ベノナ」 にも、ノーマンの名はない。ノーマンがソビエトのスパイであった証拠 はない。つまり、スパイではなかったと思われる。 1956 年、「スエズ危機」の際、駐エジプト大使として彼は実務的に仕事をして評価さ れた。ただ、ノーマンは、過去に彼がなしてきたことに、彼しか分からない悩みを抱え ていたのであろう。ビルの屋根に登り、道路に蝟集してきた人々から止められなだめら れて、ためらいにためらったあげく飛び降りて 47 年の生涯を終えた。 2001 年、東京赤坂にあるカナダ大使館は、図書室を「ノーマン記念館」としてノーマ ンの名誉回復に努めている。コロンビア大学には、ノーマンの遺族から寄贈された 100 冊あまりの日本語の歴史文献が収められている。それを見た者によると、全体的に読ま れた形跡は乏しく、書き込みは、辞書で引いた日本語の意味などがある程度という。 いかなる国民も、「独自の歴史的体験」からくる「独自の思念」から自由であることは できないだろう。現在の日本人の考え方も、特に「国際政治」や「安全保障」の捉え方 は、占領下の「閉ざされた知的空間」から解き放たれていない。「憲法改正」だけではな い、「北朝鮮による拉致」の事実がなかなか世間に信じてもらえなかったように、日本国 民は世界の悪意に気づかない。安倍晋三が払拭しようとした「占領の影」は、今もあち こちの片隅に潜んでいる。 #
by sukuukaifukushima
| 2022-10-04 20:04
| 閑居人シリーズ
こんにちは。
今日は集会開催のお知らせです。 タイトルは「拉致問題を福島から発信する8・28集会」です。 昨今のコロナ感染拡大の状況を鑑み、今回はYouTubeでのライブ配信を行います。 会場での感染予防対策としては、検温、マスク着用、アルコール消毒、室内換気を徹底します。 事前申し込みの必要はなく入場無料です。
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by sukuukaifukushima
| 2021-08-26 17:18
| お知らせ
こんにちは。
今日は集会開催のお知らせです。 タイトルは「拉致問題を福島から発信する8・28集会」です。 昨今のコロナ感染拡大の状況を鑑み、今回はYouTubeでのライブ配信を行います。 会場での感染予防対策としては、検温、マスク着用、アルコール消毒、室内換気を徹底します。 事前申し込みの必要はなく入場無料です。
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by sukuukaifukushima
| 2021-08-26 17:18
| お知らせ
こんにちは。
今日は集会開催のお知らせです。 タイトルは「拉致問題を福島から発信する8・28集会」です。 昨今のコロナ感染拡大の状況を鑑み、今回はYouTubeでのライブ配信も同時に行います。 会場での感染予防対策として、検温、マスク着用、アルコール消毒、室内換気を徹底します。 事前申し込みの必要はなく入場無料です。
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by sukuukaifukushima
| 2021-08-26 17:18
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